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Sapporo Chapter Wild Bird Society of Japan

15年間、180回の川掃除

白子川源流・水辺の会  東谷  篤

「白子川」という川は、東京23区の西の端・練馬区の大泉というところを水源とし、隅田川(新河岸川)に合流し東京湾にそそぐ、全長10キロほどの川です。私たちは、15年前に、この源流部・大泉の有志で会を結成しました。現在、会員数約120名。月に一回、定例活動を行います。その内容は、川の源流部600メートルほどの川掃除(ゴミ拾い)、繁茂しすぎた植物の刈り取り、流れの整備、生物調査、水質検査、放射線測定、など。
このほか年間の活動として、近くの小学校の4年生の総合学習への協力(学校への出前授業や、生徒が川に入り観察するのを手伝うなど)、秋には「源流まつり」の開催。まつりでは、小学生の調べ学習の発表や川談議、それにさまざまなブース(例えば、カエルの手触りと発見地点を地図に打ち込む、実際に水質検査を体験、地下水大事痛感型、会オリジナル焼印体験持ち帰り、自然科学系古本市、流域の縄文遺跡出土品展、川そばのケヤキの枝で作るアクセサリー、笹舟体験、川に棲む絶滅危惧種ホトケドジョウの赤下腹を反射鏡で観察、会オリジナルグッズ販売、東北支援焼きそば販売、など)が並びます。
以前、川に入って掃除をしている時に「何してんだ、このやろう!」と怒られること
などもありましたが、会の活動はすっかり近所の方々にも認知され、今ではよく「ご苦労さん」という声をもらいます。

この川を流れる水は湧き水100%。だから、雨が少ない時期には涸れ上がることもあります。でも、川に棲むアメリカザリガニやホトケドジョウは、再び雨が降って水がたまると、どこからともなく戻ってきます。また、珍しい水生植物として、カワモズク、ミズヒマワリなどもあります。
では最後に、この白子川で見かける野鳥を列記します。スズメ、キジバト、ドバト、
ハシブトカラス、ヒヨドリ、ムクドリ、ツバメ。これらはあまり珍しくありませんね。シジュウカラ、エナガ、オナガ、インコ、ハクセキレイ、セグロセキレイ、ツグミ、モズ、メジロ、コゲラ、カワラヒワ、コサギ、アオサギ、ゴイサギ(ホシゴイ)、カワセミ(カワセミを初めてこの川で見たときには、会員みな喜びあいました)、カワウ、ジョウビタキ、ツミ、アオジ…、今のところこんなところでしょうか。

なお、15周年を記念して7月に、宮崎駿製作・高畑勲監督『柳川堀割物語』の上映と大泉に住む高畑さんの講演を予定しています。

支部報「カッコウ」2015年6月号より

花さんが勤めた「新川自然観察の森」のモデルです

横浜自然観察の森チーフレンジャー 古南幸弘(公財)日本野鳥の会職員

2012年にヒットした映画「おおかみこどもの雨と雪」。物語中盤で主人公花さんは母となり、田舎に転居して「新川自然観察の森」という施設で働きます。私の勤務する横浜自然観察の森は、この花さんの職場のモデルになった施設です。

自然観察センターは映画にも出てきます

自然観察センターは映画にも出てきます

雄大な山岳地帯に接した映画の自然観察の森と違い、実在の横浜の施設は、人口370万人超の大都市横浜の南端にあります。しかし、ここは三浦半島にかけて3000ヘクタール以上の森林が連なる神奈川県東部随一の緑地の一部をなし、昔ながらの生物相を残しています。45ヘクタールの敷地は起伏に富む丘陵地で、コナラやミズキなどの落葉樹の二次林を主体として、照葉樹林、スギ林、竹林や、小面積の湿地や草地も交えた里山です。ここに、九百種以上の植物が生育し、今までに約2500種の昆虫が記録されています。

横浜市は1970年代後半、この地域の自然を守り活かすためにネイチャセンターを備えた自然探究路を造る構想を立て、環境庁と神奈川県の補助を得て、1986年、今の施設を開設しました。以来、市の委託により公益財団日本野鳥の会がレンジャーを常駐させています。

横浜のエナガは極太のアイライン引いています (写真提供 掛下尚一郎レンジャー)

横浜のエナガは極太のアイライン引いています
(写真提供 掛下尚一郎レンジャー)

鳥類の記録は目下152種(在来種のみ)。ウトナイ湖サンクチュアリの大自然に比べれば中自然といったところで、特別な鳥はいませんが、迷鳥ウタツグミを日本で初めて観察、また渡り途中のノゴマやオジロワシを観察したこともあります。オオカミはいませんが、ノウサギやタヌキの姿を見ることもあります。今の季節、ヤマアカガエルのおたまじゃくしは、子どもたちに大人気です。

自然観察センターには年間4万人以上が訪れます。うちボランティアの延べ数は約3000人。多くの市民に支えられて探鳥会や自然観察会、生きものの調査や森林の管理を行っているのは、大都市ならではの特徴と言えるかもしれません。

◆交通 品川から京浜急行金沢八景駅下車。神奈川中央交通バス大船行に乗り換え横浜霊園前下車。所要約1時間。

近くにお越しの機会があれば、ぜひお立ち寄りください。

支部報「カッコウ」2015年 5月号より

スズメ

熊谷勝 写真家

スズメの写真

野鳥を撮影し初めて今年で30数年が経った。何年経ってもなかなか思い通りのイメージで撮影することができない鳥がいる。スズメだ。危険な断崖絶壁に生息し、警戒心が強いハヤブサの自信作は何百枚とあるのだが、何時も目にしているスズメだけは一枚も無い。実は見なれた鳥ほど作品化することが難しい。

スズメは最も人間に身近な野鳥であるため、昔から水墨画や日本画などに多く描かれてきた。特に江戸時代の絵師丸山応挙の弟子だった長沢芦雪(ろせつ)のスズメの水墨画数点はすばらしい。スズメたちの表情、構図、空間処理、全体のリズムと緊張感、おそらくスズメの絵の最高傑作であろう。しかし、写真ではこれまですばらしいと思えるスズメの作品を私は一度も目にしたことがない。おそらく日本で見られる鳥たちの中でスズメが最も撮影が難しい鳥なのかもしれない。もちろん、ただ写すことだけならば容易いことなのだが、自分のイメージした絵作りとなると、これがなかなか簡単ではない。昨今つくづく身近な鳥たちを作品化することの難しさを感じている。

ところで「スズメのお宿」と言えば昔から竹やぶと決まっている。私にはこの「スズメのお宿」に子どもの頃の苦い思い出がある。岩手の山間部の小さな町で育った私は物心付いたころからの鳥好きであった。小学6年ある日、近所のおじさんが鳥好きの私のことを知ってこんなことを教えてくれた。裏山の竹やぶがスズメたちのねぐらで、真夜中に行って大きな竹を揺すると、スズメたちは鳥目で周りが全く見えないため、足元にぼたぼたと落ちてきて、簡単に捕まえられるというのである。当時純真な私はそのことを信じた。さすがに一人では怖いので、友達を誘い二人で翌日の晩に竹やぶへと出かけたのである。裏山の竹やぶに着くと確かにスズメたち「チュン、チュン」という騒がしい声が聞こえてきた。これはしめしめと思いながら、私と友達はそっと声がする辺りの竹の根元に近づき、思いっきり大きな竹を揺すってみた。すると、スズメたちは一斉に暗闇の空へと飛び去ってしまった。何度やっても同じで、ぼたぼたと落ちてくるのは毛虫だけであった。騙された。一般に昼間活動している鳥たちは、暗闇では目は全く見えず、飛ぶ事が出来ないと思われているが、実際は人間の目よりもはるかによく見えており、水鳥やヒタキ類などのようには夜間に渡りを行なうものも多い。子どもの頃このこと知っていれば騙されなかったのだが。

支部報「カッコウ」2015年4月号より

「恵庭市のカワセミ」と会の活動紹介

恵庭カワセミの会 前田一哉

カワセミは、皆さんよく御承知で、町中でもよくみられる鳥ですが、恵庭のカワセミの3大特徴は

  1. 越冬カワセミ
  2. 手乗りカワセミ
  3. 人口巣箱カワセミ

越冬カワセミ

A

手乗りカワセミ

B

人口巣箱カワセミ

C


と紹介させてもらっています(写真はクリックで拡大します)。

  1. は道内、数か所で見られるとは思いますが、本州の人たちには珍しく、北海道の人たちでも写真展などで紹介すると「雪景色とカワセミ」の姿に、いつも感動していただきます。
  2. は、いつもきまった枝で餌をとるため、じっとしている「カワセミ」をスコープで見ると「いつまでも、手に乗ってくれていて」じっくりと観察できます。
  3. は、本来自然の土壁に営巣するカワセミですが、「コンクリート壁の排水口」「人口営巣ブロック」「手作り巣箱」などで(市内で数か所)、営巣をしているのです。(手作り巣箱は、試験設置中)

このように、カワセミの生態は、非常にユニークであらゆる環境にも順応するような、「力強く・美しい鳥」ではありますが、一方では、環境には敏感で、「よくない川」からは、すぐにいなくなってしまいます。

恵庭カワセミの会は、平成14年から「市の鳥カワセミとその生息環境の保護・創造」をめざして

  1. 調査・研究活動(河川の生き物調べ、観察データ整備・カワセミマップ作成→河川行政に反映)
  2. 環境保全・普及活動(定例観察会・写真展・各種イベント→人と自然と共生)
  3. 支援活動(地域の諸活動へ積極参加)を活動の三本柱として「川づくり・町づくり・人づくり」に貢献すべく活動しています。メンバーは恵庭市民のみならず、恵庭市周辺(札幌・北広島・江別・千歳)から、遠くは京都、横浜にも会員がおり、いろいろな形で会の活動に参加・協力いただいています。

最後に、冬の恒例イベント「インドアバードウオッチング(震災復興支援イベント)」を紹介します。3月8日(日):9時~17時 新しくできた「恵庭黄金ふれあいセンター」で、

  1. カワセミ写真展(全国のカワセミ)
  2. バードウオッチング体験(窓辺から・映像・模型・声で)
  3. 復興支援コーナー(寄せ書き・被災地域の様子など)
  4. 交流会(市民と被災者・被災地域の方々と交流)

など、会員・スタッフが温かいお部屋で、温かい飲み物、お菓子を準備して「おもてなし」します。

※ 参加費無料!随時入退場可能!です。皆さんお誘いあわせのうえ、ぜひともご来場ください。

支部報「カッコウ」2015年 3月号より

濤沸湖水鳥・湿地センターのご紹介

濤沸湖水鳥・湿地センター センター長 細川英司

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濤沸湖水鳥・湿地センターは、平成24年5月にオープンしました。濤沸湖が平成17年11月にラムサール条約の登録湿地となったことを受け、環境省が地元自治体である網走市と小清水町からの要請に基づき、環境学習・保全活動の拠点施設として整備したものです。施設の管理運営は所在地自治体である網走市が行っています。

館内は湖に面した野鳥観察のための展望スペース、「環境と生命の関わりを知る」をテーマとして濤沸湖の特性や生物多様性について、また、地域の方々のかかわりなどを学習するための展示スペース、周辺地域の情報提供コーナー、映像鑑賞のためのレクチャー室などがあります。

特にレクチャー室でご覧いただける映像「生命のゆりかご」は、一般社団法人映像文化製作者連盟の映文連アワード2013ソーシャルコミュニケーション部門優秀賞を受賞したもので、濤沸湖の成り立ちや湖と地域の産業のかかわりから四季折々の景観や動植物などが短時間(13分)にコンパクトに凝縮され、環境学習のコンテンツとしてだけではなく、鑑賞用としても充分にお楽しみいただけます。

年間を通して約250種類の野鳥が確認されている濤沸湖ですが、11月中に飛来のピークを迎えたと思われるオオハクチョウの一部は、そのまま濤沸湖に留まり越冬しています。センター寄りの湖面は海と繋がっているため一定の流れがあり、厳冬期でも完全に凍結せず、濤沸湖で越冬する野鳥は比較的センターに近い場所に留まる傾向がありますので、真冬でもセンター内展望スペースから観察ができます。
センターはオープンから3年目を迎えていますが、ラムサール条約の理念に基づき、濤沸湖の素晴らしい自然環境の保全と賢明な利用(ワイズユース)を進めるため、環境学習施設としての特徴を生かし、子ども向けの各種講座、一般向けの観察会等を日本野鳥の会オホーツク支部や濤沸湖ファンクラブ(センター登録ボランティアの団体)会員の皆さんなどからご協力をいただきながら開催しています。今後も地域の方々と共に、魅力あふれる施設としてのセンターを形作っていきたいと考えています。

札幌支部の皆さんの中には、以前からの野鳥の観察ポイントとして何度も足を運ばれた方もいらっしゃることと思いますが、濤沸湖周辺での野鳥観察にお越しの際は、是非濤沸湖水鳥・湿地センターにお立ち寄りください。

〒099-3112網走市字北浜203番3地先(白鳥公園となり)
濤沸湖水鳥・湿地センター TEL/FAX(0152)46-2400
休館日:月曜日(月曜祝日の場合は翌平日休館)

支部報「カッコウ」2015年 1,2月号より

身近なフィールドとしての河畔林

知床在住 新庄康平

私は2年前までは富山県に住んでいましたが、今は北海道の斜里町に在住しています。私は小さいころから自然が好きで、遊びのほとんどは野外でした。特に生き物に興味があり、近所の公園や空き地でバッタやコオロギ、カマキリを探したり、田んぼや用水路でカエルやヘビ、ザリガニ、魚などを追いかけて遊んでいました。
やがて遊びの行動範囲が広がると、自宅から自転車で10分ほどのところにある川が、主な遊び場となった。その川が、つい2年ほど前まで、私のフィールドとなりました。

私が通った河畔林は、林と言うには木が薄く、川沿いにわずかに木が並んでいる程度で、林の幅は平均して20mほどあったかどうかの狭い場所です。橋の上から見ても土手から見ても、普通は下りて行ってみようと思わないような外見でした。しかし、当時の私にとっては1年中楽しめる秘密の場所でした。

この河畔林の四季の見どころを順に紹介していきますと、夏はまず、多くの生き物に出会います。河畔林の柳の木では樹液が出ており、カナブンやカブトムシ、クワガタが多く集まってきます。また、湿度の高い河畔林の林床では、カタツムリの仲間が意外に多く、少なくとも9種類の生息を確認しました。けもの道のようになっている林内ではタヌキの溜糞や、何者かに襲われたキジの羽根が散らばっていたりもしました。夏はオオヨシキリのBGMを常に耳にしながらこのような生き物たちを観察できます。

秋、鳥の渡りの季節になると、通り過ぎるだけの鳥も一時的に立ち寄ったり、冬鳥がやってきます。河畔林には野生化した柿の木が生えており、ヒヨドリやツグミが主に食べに来ていました。

冬はノスリ、ケアシノスリ、チョウゲンボウ、コチョウゲンボウ、ハイタカ、オオタカ、ハヤブサ、トラフズクなどの猛禽類が河畔林を越冬地として利用していました。観察していて面白かったのが、道路脇のとある電柱がオオタカの解体場になっており、そばを通るたびに色々な鳥の羽根を拾うので、オオタカが何を食べているかが文字通り手に取るように分かることでした。一番多かったのがツグミで、他にはキジバト、カワラヒワ、タシギ、シロハラ、ハクセキレイなどでした。

また、冬の河畔林内を歩くと野鳥観察以外にも楽しみがあります。河畔林のあちらこちらの木からエノキタケが生えてくるのと、運が良ければ大量のヒラタケが採れることです。

春にも意外と高頻度にヒラタケが採れ、もちろん春ならではのフキノトウ、コゴミ、ヤマシャク、ヤブカンゾウなど山菜類も楽しむことができました。

私が通っていた狭い河畔林でもこんなに一年中楽しむことができたので、皆さんも身近に河畔林があるならば、ちょっと立ち寄ってみてはいかがでしょうか?きっと面白い発見があると思いますので、身近なフィールドとしてお勧めです。

支部報「カッコウ」2014年12月号より

折居彪二郎採集日誌の出版

折居彪二郎採集日誌編集委員長 鷲田善幸

ウトナイ湖の鳥類調査を最初に行った人は折居彪二郎(おりい ひょうじろう)です。折居が昭和三十年代に林野庁から依頼を受け行った調査が、ウトナイ湖サンクチュアリの調査活動の元祖と言って良いかもしれません。

折居彪二郎は新潟県で生まれ、一九一三年から苫小牧村字植苗(当時)で農業のかたわら鳥学者、動物学者の依頼により鳥獣採集を行っていました。戦前、山階芳麿、黒田長禮らの依頼で韓国、旧満州、千島、樺太、ミクロネシア、台湾、琉球列島等へ鳥獣採集に赴き、日本の鳥類学に多大な貢献をしました。

折居が製作した標本は数万点で、現在、山階鳥類研究所をはじめ各地の博物館等に合計一万点近くが残っています。中にはイギリスやアメリカの自然史博物館等海外に納められた標本もあります。

折居は採集旅行に行った際、日記をつけていて、採集した鳥獣についてだけでなく海外で体調を崩した時の様子や異郷の地で妻子を思う気持ちなども書かれています。食事代や宿代、交通費など詳しく記されていて当時の世相がうかがわれます。各地の風俗や景色・地形なども書かれ、旅行記として読んでも面白いものです。

故小山政弘氏が折居の業績に関心を持ち、一九八〇年「折居彪二郎遺稿集編纂委員会」を正富宏之氏はじめ八名で立ち上げました。小山氏が、編纂委員会のメンバーに折居彪二郎の日誌や手紙の原稿書き起こしを分担しました。あちこちの出版社に当たったが売れそうもない本を引き受ける所は無く、やがて小山氏から大畑孝二氏へ原稿は引き継がれました。実質的には大畑氏が中心となり、正富氏を会長とする折居彪二郎研究会が一九九三年にでき、小山氏の志を受け継ぎました。

その後、二〇〇三年から二〇〇九年にかけて折居彪二郎研究会のメンバーにより沖縄大学研究叢書、苫小牧市博物館館報、岐阜県博物館調査報告等に各採集日誌の活字化が実現しました。けれども、大学や博物館の出版物は一般の方が読む機会がほとんどありません。

そこでより多くの方々に読んでいただきたく折居彪二郎の採集日誌を一冊にまとめた本の出版が大畑氏の呼び掛けにより企画されました。癖字や略字が多用され、採集日誌の判読は各執筆者共大変苦労しました。折居の遺族が苫小牧市に寄贈した採集日誌八冊を、専門家でない方々にも読みやすいようにと文語で書かれた採集日誌原文を現代語訳しました。

折居の評伝や現存する標本の紹介等を加えて、生誕一三〇年にあたる二〇一三年に苫小牧の一耕社(電話〇一四四-七五-六七九〇)より「鳥獣採集家折居彪二郎採集日誌」として自費出版しました。

支部報「カッコウ」2014年11月号より
「鳥日和」>「レビュー」コーナーでも「鳥獣採集家 折居彪二郎採集日誌」を紹介しております。出版社のリンクも張ってありますので、そちらも合わせてご覧ください。

木漏れ日が降り注ぐ水面

ウトナイ湖サンクチュアリレンジャー 松岡 佑昌

ウトナイ湖周辺は9月11日の記録的大雨の影響で川が増水し、その水の受け皿であるウトナイ湖がオーバーフローしました。その結果周辺の林は水につかり、木道の多くが水没しました。地面に固定されていない木道は浮き船のようになっており体重を乗せるとグラグラと揺れました。ネイチャーセンターは高床式構造が幸いして浸水はなかったものの周囲が水にかこまれてしまい長靴なしでは出勤できなくなりました。十数年ぶりのできごとだそうです。

赴任一年目の私はもちろんのこと、現在勤務するすべてのレンジャーが初めて体験するできごとで、一同大興奮でした。散策路の巡回に託けて普段見ることのできない林に順番に探検しにいきました。歩いてみると、地表徘徊性のゴミムシやクモが少しでも高い場所にと避難したかったのか浮き船状態になった木道の上にのっているのを頻繁に見かけました。彼らからするとノアの方舟のような感覚だったのでしょうか。

ひとたび木道を抜け、自然道に差し掛かると私はそこに広がる光景に目を奪われました。散策路一面に広がる水面に木漏れ日が差し込みキラキラと輝き、かすかに写りこむ青空は鉄分を含んだ赤茶の水の色と混ざりあいなんとも表現しがたい世界を作っていたのです。歩くとそこに波紋が広がってしまうので、ときどき立ち止まっては見とれていました。

水の底をよくみると、見慣れた散策路の土や木の根っこが見え、その上をコイなどの魚が泳いでいました。歩くとときどき根っこにつまずきころびそうになりました。オタルマップ川の近くを歩いたとき、普段川筋近くでしか見られないカワセミの声が川筋から外れた場所からも聞こえてきました。きっと小さい魚が川から外れたところを泳いでいたのでしょう。また、この時期花盛りを迎えているエゾリンドウは水の上にかろうじて顔を出す程度で、まるで水中花のようでした。その他にもそこにはたくさんの日常と非日常の世界が絶妙なバランスで共存していました。

自然道の様子

自然道の様子

楽しい時間にはいつか必ず終わりがくるもので、4日経った現在ではすでにかなり水が引いてしまいました。しかし、ほんの一瞬しか見られないからこそ美しく感じることができるのではないかと思います。私たちはそんな一瞬の出会いを大切にしなくてはいけないのかもしれないと考えさせられたできごとでした。

支部報「カッコウ」2014年10月号より

北海道のトコロジストたち

山田三夫

 鳥日和のレビューページではトコロジストという新しい言葉を紹介しました。ここではそうした人たちが町おこし・地域活動に携わった北海道内の事例を二つ紹介します。

栗山水辺の生きものしらべ

 1989年当時の環境庁が全国から100箇所ほど、身近な場所で、昆虫や野鳥などをとおして自然環境をたいせつに守っている地域・団体を「ふるさと生きものの里」として選定しました。北海道からは4つの場所と団体が選ばれています。

 そのひとつが空知管内栗山町のオオムラサキの会です。1985年地元でオオムラサキが発見されたのを機に、それをシンボルにして自然環境を保全する機運が高まり、以来市民と行政が一体になって活動しています。北海道では初めて「里山」の概念を取り入れて町おこしを始めた所で、その後離農した農家から土地を提供され、里山づくりを進めています。野鳥愛好グループや植物の会、さらに青年会議所のメンバーも加わり、行政の支援もあり、さまざまな活動を現在も続けています。数年前には企業の支援を受け、廃校になった小学校を利用し、宿泊可能な環境教育プログラムを実施するNPO法人をつくり運営しています。

 もう一つは遠軽町丸瀬布にある丸瀬布昆虫同好会です。偶然なのでしょうがこちらも栗山と同じ1985年に活動を始めています。行政に昆虫での町おこしをはたらきかけ、昆虫生態館を作り、専門家を雇用し、みごとな生態展示をしています。現在の活動は町内の子供を対象に「わくわく自然体験」という行事を毎月おこなっています。また昆虫生態館の展示づくり、昆虫の調査・保護活動、近年は特定外来種の駆除もやっていて、それらが評価され2013年には環境大臣表彰を受けています。

丸瀬布昆虫生態館

 自然の中へ入り、そこで見たこと、知ったことからその場所の自然環境の大切さを感じる人は多いのではないでしょうか。身近に自分のフィールドを持ち、あなたもトコロジストをめざしませんか。


支部報「カッコウ」2014年 8,9月号より


関連ページ:鳥日和 > レビュー > 「トコロジストになろう!

タンチョウと石狩低地帯

北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程 久井貴世

かつて北海道が蝦夷地と呼ばれていた時代、タンチョウは道内各地に広く生息していました。江戸時代の史料では、蝦夷地には白鶴(ソデグロヅル)、蒼鶴(マナヅル)、黒鶴(ナベヅル)が生息し、なかでも丹頂(タンチョウ)が特に多いと記されています。タンチョウの生息地としては石狩や勇払などのほか、特に著名なのはシコツでした。シコツとは現在の千歳地域のことですが、文化2年、ツルが多く生息することに因んで「千歳」と改名されました。明治に入ってからも、石狩低地帯には多くのタンチョウが生息していました。明治14年時点で道内の繁殖地として認識されていたのは、胆振国千歳郡や札幌丘珠村などでした。明治のはじめ頃、タンチョウは千歳や札幌でも繁殖していたのです。

北海道の人々にとって、タンチョウは有用な資源でした。松前藩にとっては重要な産物であり、アイヌの人々もわなや弓矢でタンチョウを捕獲して、これを和人との交易や献上の場面で利用しました。また、明治5年に千歳に移住した入植者は、捕獲したツルで缶詰を自製したり、脛骨でかんざしを作ったりしたといいます。

ツルは食材としても利用されていましたが、当時の史料には、最も美味なのはナベヅルで、次いでマナヅル、さらにソデグロヅルは下等であると記されています。そしてタンチョウは、肉が硬く味も良くないので、食用にすることは少ないとされました。それでは、北海道で捕獲されたタンチョウは食用にならなかったのでしょうか。明治18年の函館で阿寒産の「丹頂の鶴肉」が販売されたという記録を見る限りは、タンチョウも食用になっていたことが窺えます。

あまり美味しくないとされるタンチョウは、むしろ飼い鳥としての需要がありました。水戸黄門で知られる徳川光圀は、松前藩主から進上されたタンチョウを2羽飼っていたし、室蘭のアイヌが捕獲したタンチョウは江戸城西の丸で飼われていました。明治に入ると、いわゆる特権階級の人々の屋敷でもタンチョウを飼うようになり、例えば徳川慶喜や松方正義、大隈重信などがそうでした。もちろん、皇居での飼育も確認できます。明治27年、現在の北広島で捕獲されたタンチョウの幼鳥が明治天皇のもとへ献納され、その後皇居で飼われていました。

残念ながら石狩低地帯のタンチョウは、これと同じ頃に姿を消したといわれます。しかし近年では、苫小牧でつがいのタンチョウが確認されるなど、石狩低地帯での情報を耳にすることがあります。百余年を経て、再び石狩低地帯にタンチョウの姿を見る日が来るのかもしれないですね。

タンチョウ捕獲の図/北海道大学附属図書館蔵『蝦夷風俗図』より

支部報「カッコウ」2014年 7月号より