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Sapporo Chapter Wild Bird Society of Japan

濤沸湖水鳥・湿地センターのご紹介

濤沸湖水鳥・湿地センター センター長 細川英司

リレーエッセイ150102写真

濤沸湖水鳥・湿地センターは、平成24年5月にオープンしました。濤沸湖が平成17年11月にラムサール条約の登録湿地となったことを受け、環境省が地元自治体である網走市と小清水町からの要請に基づき、環境学習・保全活動の拠点施設として整備したものです。施設の管理運営は所在地自治体である網走市が行っています。

館内は湖に面した野鳥観察のための展望スペース、「環境と生命の関わりを知る」をテーマとして濤沸湖の特性や生物多様性について、また、地域の方々のかかわりなどを学習するための展示スペース、周辺地域の情報提供コーナー、映像鑑賞のためのレクチャー室などがあります。

特にレクチャー室でご覧いただける映像「生命のゆりかご」は、一般社団法人映像文化製作者連盟の映文連アワード2013ソーシャルコミュニケーション部門優秀賞を受賞したもので、濤沸湖の成り立ちや湖と地域の産業のかかわりから四季折々の景観や動植物などが短時間(13分)にコンパクトに凝縮され、環境学習のコンテンツとしてだけではなく、鑑賞用としても充分にお楽しみいただけます。

年間を通して約250種類の野鳥が確認されている濤沸湖ですが、11月中に飛来のピークを迎えたと思われるオオハクチョウの一部は、そのまま濤沸湖に留まり越冬しています。センター寄りの湖面は海と繋がっているため一定の流れがあり、厳冬期でも完全に凍結せず、濤沸湖で越冬する野鳥は比較的センターに近い場所に留まる傾向がありますので、真冬でもセンター内展望スペースから観察ができます。
センターはオープンから3年目を迎えていますが、ラムサール条約の理念に基づき、濤沸湖の素晴らしい自然環境の保全と賢明な利用(ワイズユース)を進めるため、環境学習施設としての特徴を生かし、子ども向けの各種講座、一般向けの観察会等を日本野鳥の会オホーツク支部や濤沸湖ファンクラブ(センター登録ボランティアの団体)会員の皆さんなどからご協力をいただきながら開催しています。今後も地域の方々と共に、魅力あふれる施設としてのセンターを形作っていきたいと考えています。

札幌支部の皆さんの中には、以前からの野鳥の観察ポイントとして何度も足を運ばれた方もいらっしゃることと思いますが、濤沸湖周辺での野鳥観察にお越しの際は、是非濤沸湖水鳥・湿地センターにお立ち寄りください。

〒099-3112網走市字北浜203番3地先(白鳥公園となり)
濤沸湖水鳥・湿地センター TEL/FAX(0152)46-2400
休館日:月曜日(月曜祝日の場合は翌平日休館)

支部報「カッコウ」2015年 1,2月号より

身近なフィールドとしての河畔林

知床在住 新庄康平

私は2年前までは富山県に住んでいましたが、今は北海道の斜里町に在住しています。私は小さいころから自然が好きで、遊びのほとんどは野外でした。特に生き物に興味があり、近所の公園や空き地でバッタやコオロギ、カマキリを探したり、田んぼや用水路でカエルやヘビ、ザリガニ、魚などを追いかけて遊んでいました。
やがて遊びの行動範囲が広がると、自宅から自転車で10分ほどのところにある川が、主な遊び場となった。その川が、つい2年ほど前まで、私のフィールドとなりました。

私が通った河畔林は、林と言うには木が薄く、川沿いにわずかに木が並んでいる程度で、林の幅は平均して20mほどあったかどうかの狭い場所です。橋の上から見ても土手から見ても、普通は下りて行ってみようと思わないような外見でした。しかし、当時の私にとっては1年中楽しめる秘密の場所でした。

この河畔林の四季の見どころを順に紹介していきますと、夏はまず、多くの生き物に出会います。河畔林の柳の木では樹液が出ており、カナブンやカブトムシ、クワガタが多く集まってきます。また、湿度の高い河畔林の林床では、カタツムリの仲間が意外に多く、少なくとも9種類の生息を確認しました。けもの道のようになっている林内ではタヌキの溜糞や、何者かに襲われたキジの羽根が散らばっていたりもしました。夏はオオヨシキリのBGMを常に耳にしながらこのような生き物たちを観察できます。

秋、鳥の渡りの季節になると、通り過ぎるだけの鳥も一時的に立ち寄ったり、冬鳥がやってきます。河畔林には野生化した柿の木が生えており、ヒヨドリやツグミが主に食べに来ていました。

冬はノスリ、ケアシノスリ、チョウゲンボウ、コチョウゲンボウ、ハイタカ、オオタカ、ハヤブサ、トラフズクなどの猛禽類が河畔林を越冬地として利用していました。観察していて面白かったのが、道路脇のとある電柱がオオタカの解体場になっており、そばを通るたびに色々な鳥の羽根を拾うので、オオタカが何を食べているかが文字通り手に取るように分かることでした。一番多かったのがツグミで、他にはキジバト、カワラヒワ、タシギ、シロハラ、ハクセキレイなどでした。

また、冬の河畔林内を歩くと野鳥観察以外にも楽しみがあります。河畔林のあちらこちらの木からエノキタケが生えてくるのと、運が良ければ大量のヒラタケが採れることです。

春にも意外と高頻度にヒラタケが採れ、もちろん春ならではのフキノトウ、コゴミ、ヤマシャク、ヤブカンゾウなど山菜類も楽しむことができました。

私が通っていた狭い河畔林でもこんなに一年中楽しむことができたので、皆さんも身近に河畔林があるならば、ちょっと立ち寄ってみてはいかがでしょうか?きっと面白い発見があると思いますので、身近なフィールドとしてお勧めです。

支部報「カッコウ」2014年12月号より

折居彪二郎採集日誌の出版

折居彪二郎採集日誌編集委員長 鷲田善幸

ウトナイ湖の鳥類調査を最初に行った人は折居彪二郎(おりい ひょうじろう)です。折居が昭和三十年代に林野庁から依頼を受け行った調査が、ウトナイ湖サンクチュアリの調査活動の元祖と言って良いかもしれません。

折居彪二郎は新潟県で生まれ、一九一三年から苫小牧村字植苗(当時)で農業のかたわら鳥学者、動物学者の依頼により鳥獣採集を行っていました。戦前、山階芳麿、黒田長禮らの依頼で韓国、旧満州、千島、樺太、ミクロネシア、台湾、琉球列島等へ鳥獣採集に赴き、日本の鳥類学に多大な貢献をしました。

折居が製作した標本は数万点で、現在、山階鳥類研究所をはじめ各地の博物館等に合計一万点近くが残っています。中にはイギリスやアメリカの自然史博物館等海外に納められた標本もあります。

折居は採集旅行に行った際、日記をつけていて、採集した鳥獣についてだけでなく海外で体調を崩した時の様子や異郷の地で妻子を思う気持ちなども書かれています。食事代や宿代、交通費など詳しく記されていて当時の世相がうかがわれます。各地の風俗や景色・地形なども書かれ、旅行記として読んでも面白いものです。

故小山政弘氏が折居の業績に関心を持ち、一九八〇年「折居彪二郎遺稿集編纂委員会」を正富宏之氏はじめ八名で立ち上げました。小山氏が、編纂委員会のメンバーに折居彪二郎の日誌や手紙の原稿書き起こしを分担しました。あちこちの出版社に当たったが売れそうもない本を引き受ける所は無く、やがて小山氏から大畑孝二氏へ原稿は引き継がれました。実質的には大畑氏が中心となり、正富氏を会長とする折居彪二郎研究会が一九九三年にでき、小山氏の志を受け継ぎました。

その後、二〇〇三年から二〇〇九年にかけて折居彪二郎研究会のメンバーにより沖縄大学研究叢書、苫小牧市博物館館報、岐阜県博物館調査報告等に各採集日誌の活字化が実現しました。けれども、大学や博物館の出版物は一般の方が読む機会がほとんどありません。

そこでより多くの方々に読んでいただきたく折居彪二郎の採集日誌を一冊にまとめた本の出版が大畑氏の呼び掛けにより企画されました。癖字や略字が多用され、採集日誌の判読は各執筆者共大変苦労しました。折居の遺族が苫小牧市に寄贈した採集日誌八冊を、専門家でない方々にも読みやすいようにと文語で書かれた採集日誌原文を現代語訳しました。

折居の評伝や現存する標本の紹介等を加えて、生誕一三〇年にあたる二〇一三年に苫小牧の一耕社(電話〇一四四-七五-六七九〇)より「鳥獣採集家折居彪二郎採集日誌」として自費出版しました。

支部報「カッコウ」2014年11月号より
「鳥日和」>「レビュー」コーナーでも「鳥獣採集家 折居彪二郎採集日誌」を紹介しております。出版社のリンクも張ってありますので、そちらも合わせてご覧ください。

木漏れ日が降り注ぐ水面

ウトナイ湖サンクチュアリレンジャー 松岡 佑昌

ウトナイ湖周辺は9月11日の記録的大雨の影響で川が増水し、その水の受け皿であるウトナイ湖がオーバーフローしました。その結果周辺の林は水につかり、木道の多くが水没しました。地面に固定されていない木道は浮き船のようになっており体重を乗せるとグラグラと揺れました。ネイチャーセンターは高床式構造が幸いして浸水はなかったものの周囲が水にかこまれてしまい長靴なしでは出勤できなくなりました。十数年ぶりのできごとだそうです。

赴任一年目の私はもちろんのこと、現在勤務するすべてのレンジャーが初めて体験するできごとで、一同大興奮でした。散策路の巡回に託けて普段見ることのできない林に順番に探検しにいきました。歩いてみると、地表徘徊性のゴミムシやクモが少しでも高い場所にと避難したかったのか浮き船状態になった木道の上にのっているのを頻繁に見かけました。彼らからするとノアの方舟のような感覚だったのでしょうか。

ひとたび木道を抜け、自然道に差し掛かると私はそこに広がる光景に目を奪われました。散策路一面に広がる水面に木漏れ日が差し込みキラキラと輝き、かすかに写りこむ青空は鉄分を含んだ赤茶の水の色と混ざりあいなんとも表現しがたい世界を作っていたのです。歩くとそこに波紋が広がってしまうので、ときどき立ち止まっては見とれていました。

水の底をよくみると、見慣れた散策路の土や木の根っこが見え、その上をコイなどの魚が泳いでいました。歩くとときどき根っこにつまずきころびそうになりました。オタルマップ川の近くを歩いたとき、普段川筋近くでしか見られないカワセミの声が川筋から外れた場所からも聞こえてきました。きっと小さい魚が川から外れたところを泳いでいたのでしょう。また、この時期花盛りを迎えているエゾリンドウは水の上にかろうじて顔を出す程度で、まるで水中花のようでした。その他にもそこにはたくさんの日常と非日常の世界が絶妙なバランスで共存していました。

自然道の様子

自然道の様子

楽しい時間にはいつか必ず終わりがくるもので、4日経った現在ではすでにかなり水が引いてしまいました。しかし、ほんの一瞬しか見られないからこそ美しく感じることができるのではないかと思います。私たちはそんな一瞬の出会いを大切にしなくてはいけないのかもしれないと考えさせられたできごとでした。

支部報「カッコウ」2014年10月号より

北海道のトコロジストたち

山田三夫

 鳥日和のレビューページではトコロジストという新しい言葉を紹介しました。ここではそうした人たちが町おこし・地域活動に携わった北海道内の事例を二つ紹介します。

栗山水辺の生きものしらべ

 1989年当時の環境庁が全国から100箇所ほど、身近な場所で、昆虫や野鳥などをとおして自然環境をたいせつに守っている地域・団体を「ふるさと生きものの里」として選定しました。北海道からは4つの場所と団体が選ばれています。

 そのひとつが空知管内栗山町のオオムラサキの会です。1985年地元でオオムラサキが発見されたのを機に、それをシンボルにして自然環境を保全する機運が高まり、以来市民と行政が一体になって活動しています。北海道では初めて「里山」の概念を取り入れて町おこしを始めた所で、その後離農した農家から土地を提供され、里山づくりを進めています。野鳥愛好グループや植物の会、さらに青年会議所のメンバーも加わり、行政の支援もあり、さまざまな活動を現在も続けています。数年前には企業の支援を受け、廃校になった小学校を利用し、宿泊可能な環境教育プログラムを実施するNPO法人をつくり運営しています。

 もう一つは遠軽町丸瀬布にある丸瀬布昆虫同好会です。偶然なのでしょうがこちらも栗山と同じ1985年に活動を始めています。行政に昆虫での町おこしをはたらきかけ、昆虫生態館を作り、専門家を雇用し、みごとな生態展示をしています。現在の活動は町内の子供を対象に「わくわく自然体験」という行事を毎月おこなっています。また昆虫生態館の展示づくり、昆虫の調査・保護活動、近年は特定外来種の駆除もやっていて、それらが評価され2013年には環境大臣表彰を受けています。

丸瀬布昆虫生態館

 自然の中へ入り、そこで見たこと、知ったことからその場所の自然環境の大切さを感じる人は多いのではないでしょうか。身近に自分のフィールドを持ち、あなたもトコロジストをめざしませんか。


支部報「カッコウ」2014年 8,9月号より


関連ページ:鳥日和 > レビュー > 「トコロジストになろう!

タンチョウと石狩低地帯

北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程 久井貴世

かつて北海道が蝦夷地と呼ばれていた時代、タンチョウは道内各地に広く生息していました。江戸時代の史料では、蝦夷地には白鶴(ソデグロヅル)、蒼鶴(マナヅル)、黒鶴(ナベヅル)が生息し、なかでも丹頂(タンチョウ)が特に多いと記されています。タンチョウの生息地としては石狩や勇払などのほか、特に著名なのはシコツでした。シコツとは現在の千歳地域のことですが、文化2年、ツルが多く生息することに因んで「千歳」と改名されました。明治に入ってからも、石狩低地帯には多くのタンチョウが生息していました。明治14年時点で道内の繁殖地として認識されていたのは、胆振国千歳郡や札幌丘珠村などでした。明治のはじめ頃、タンチョウは千歳や札幌でも繁殖していたのです。

北海道の人々にとって、タンチョウは有用な資源でした。松前藩にとっては重要な産物であり、アイヌの人々もわなや弓矢でタンチョウを捕獲して、これを和人との交易や献上の場面で利用しました。また、明治5年に千歳に移住した入植者は、捕獲したツルで缶詰を自製したり、脛骨でかんざしを作ったりしたといいます。

ツルは食材としても利用されていましたが、当時の史料には、最も美味なのはナベヅルで、次いでマナヅル、さらにソデグロヅルは下等であると記されています。そしてタンチョウは、肉が硬く味も良くないので、食用にすることは少ないとされました。それでは、北海道で捕獲されたタンチョウは食用にならなかったのでしょうか。明治18年の函館で阿寒産の「丹頂の鶴肉」が販売されたという記録を見る限りは、タンチョウも食用になっていたことが窺えます。

あまり美味しくないとされるタンチョウは、むしろ飼い鳥としての需要がありました。水戸黄門で知られる徳川光圀は、松前藩主から進上されたタンチョウを2羽飼っていたし、室蘭のアイヌが捕獲したタンチョウは江戸城西の丸で飼われていました。明治に入ると、いわゆる特権階級の人々の屋敷でもタンチョウを飼うようになり、例えば徳川慶喜や松方正義、大隈重信などがそうでした。もちろん、皇居での飼育も確認できます。明治27年、現在の北広島で捕獲されたタンチョウの幼鳥が明治天皇のもとへ献納され、その後皇居で飼われていました。

残念ながら石狩低地帯のタンチョウは、これと同じ頃に姿を消したといわれます。しかし近年では、苫小牧でつがいのタンチョウが確認されるなど、石狩低地帯での情報を耳にすることがあります。百余年を経て、再び石狩低地帯にタンチョウの姿を見る日が来るのかもしれないですね。

タンチョウ捕獲の図/北海道大学附属図書館蔵『蝦夷風俗図』より

支部報「カッコウ」2014年 7月号より

庭に来る野鳥

カッコウのイラスト請負人 小山田 尚子

数年前から、雪が積ったころ、庭木の冬囲いの竹にリンゴやナシを刺して、簡易バードテーブルを作っている。お客はもっぱらヒヨドリで、どこで見ているのか、リンゴを刺すと間もなく、あの「ピィーヨ」という甲高い声とともに、庭にやって来る。

 毎年つがいと思われる2羽が連れ立ってやってくるのだが、必ず一羽は近くの木にとまって、もう1羽が 食べ終わるのを待ち、食べ終わった方が飛び立つと、おもむろにバードテーブルへと向かう。「親しき仲にも礼儀あり」なのか、天敵に襲われないように、見張りをする習慣になっているのか、いずれにしても、協力しあって餌を食べているのは、見ていてほほえましい。

 しかし、今年、初めて2羽が同時にバードテーブルにいるところを見た。

 その日は、急に風が強くなって、一転にわかに掻き曇りといった状況だった。最初はいつものとおり、1 羽ずつ交代で食べていたのだが、風雪が激しくなってきた時、順番待ちをしていた1羽がバードテーブルに飛んで来た。この時ばかりは、交代することもなく、 1羽は竹につかまり、もう1羽はムシロにつかまって一心不乱にリンゴを食べ続け、食べ終わると、一緒に山のほうへと飛んでいった。「天気が荒れてきたか ら、早く食べて帰ろうよ。」といったところか。

 こんなふうに、冬になると、ヒヨドリ観察ばかりしているような気がする。いや、もしかすると、私がヒヨドリに観察されているのかもしれない。
リンゴも残り少なくなってきたので、そろそろバードテーブルをやめようと決意したある朝、玄関を出る と、頭上から「ピィーヨ(また来ましたぜ)」という声。おまけに、リンゴのないバードテーブルに飛んで行き、「ピィーヨ、ピィーヨ(リンゴがないけど、どおしたのかな)」とキョロキョロしながら鳴き続ける役者ぶり。私の決意はあっけなく崩れ去ったのである。ヒヨドリに、「ここの住人は、押しに弱い」と見抜 かれた気がする。

 雪解けも進み、4月になると、ヒヨドリはぱったりと庭先に来なくなった。野山で餌場を見つけたのだろう。これで、しばらくはヒヨドリに振り回されずにすむようになった。

 春になって、山が鳥の声で賑やかになってきた。我が家は、山と川に挟まれた場所にあるので、1年を通 じて結構色々な野鳥が立ち寄ってくれる。シジュウカラ・ヤマガラは常連さん、ムクドリ・ツグミ・ハクセキレイ・コゲラ・メジロ・キジバト、大きなもので は、ハイタカが松にとまっていたこともあった。先日初めてマヒワを見ることができた。スズメの集会もそろそろ始まりそうである。これから夏に向けて、今年 はどんな野鳥が来てくれるのか、とても楽しみだ。

 ところで、庭先に来なくなったとはいえ、ヒヨドリの姿はよく見かける。冬場よりは控えめな声で鳴きながら、上空を軽快に飛んで行く。半年後、ひょっこり庭に現れるのを期待しつつ、それまで元気でねと空を見上げる今日この頃である。

支部報「カッコウ」2014年 6月号より

岡山県のブッポウソウ保護活動

岡山県支部 幹事 渡辺 裕幸

ブッポウソウを見たことがありますか。
5月初旬に東南アジア方面から飛来し、北海道を除く、全国の寺社林周辺で繁殖していた絶滅危惧ⅠB類(環境省レッドリスト)、森の宝石とも呼ばれる美しい夏鳥です。鳴き声はゲゲゲー、仏法僧と鳴くのはコノハズクです。昭和10年頃から天然記念物として(1)宮崎県狭野神社(2)岐阜県州原神社(3)長野県三岳(4)山梨県身延山の4カ所がブッポウソウの繁殖地として指定されましたが、現在、いずれの場所も繁殖は見られません。東京都八王子市の高尾山での繁殖確認も83年が最後でした。

岡山県支部では、88年から県下全域で4年間ブッポウソウ生息状況調査を行い、営巣の可能性の高い巣穴68カ所のうち46カ所が木製電柱であること、個体数96羽を確認しました。県北西部の蒜山地区で、コムクドリ用に掛けていた巣箱にブッポウソウが繁殖している事例も報告されました。一方、営巣に利用されていた木製電柱は、コンクリート製や鋼管製の電柱への取替が進められていた時期だったので、ブッポウソウ用の巣箱を製作し設置してみようと考えました。そこで繁殖密度が高かった吉備中央町加茂川地区に巣箱を設置する試みが始まったのです。90年の9個から始まり、91年には巣箱10個中4個で営巣、92年からNTT電柱に設置許可を取り設置数を順次増やしました。昨年13年は吉備中央町で195個(うち岡大管理33個)、近隣市町村で122個と全県で317個の巣箱が設置され、巣箱利用率は約70%になっています。
巣箱調査や標識調査、ビデオカメラから、少しずつ生態も分かってきました。餌としてカナブンなど甲虫類、セミやヤンマなどの飛翔性昆虫類などを捕食し、貝類や缶蓋などを胃内で碾き臼として使う習性を持ち、ほぼ前年と同じ巣箱に帰って来る。水田が広がる昆虫類が多い里山の環境を好み、人家や道路の影響は少ない。

中国地方では、広島県下各地でほぼ同規模の巣箱掛けによる保護活動が行われおり、鳥取県も14年前からの保護活動が成功しています。長野県や京都府では告示で「ブッポウソウ保護回復事業計画」を昨年から開始しましたが、同じ里山環境に巣箱掛けを続けても、継続的に利用されない県も多くあるようです。
吉備中央町では、95年ブッポウソウを旧加茂川町の「町の鳥」に指定し、小学校での巣箱作りや観察会を支部が指導をしました。町村合併後の06年高円宮妃久子殿下を来賓にお迎えして「ブッポウソウ保護フォーラム2006 in吉備中央町」を開催してからは、町民の中にも「私たちの町にやってくるブッポウソウ」の意識が非常に高まり、12年町役場として説明パンフレットを作成し全戸配布、13年ピンバッチ販売や「希少野生動植物を保護する条例」でブッポウソウとニホンメダカを指定するなど、行政が音頭をとった支援も得られるようになりました。

06年に一部観察ルートを公表し、3カ所の「ブッポウソウ案内所」で巣箱内のライブ映像を公開した頃から、ブッポウソウ観察や撮影目的だけの訪問者が急増して、心ないマナー違反者が増えて来たことも現実です。支部では、HPやtwitter、facebookを使って広くブッポウソウの情報を伝えることでファン層を拡大させ、理解者の増加によって抑止力効果が出ることを期待しているところです。

1.春の巣箱新規設置作業、2.地元や一般観察会の案内、3.秋の全巣箱掃除と繁殖調査などの保護活動自体は24年間変わってはいませんが、参加会員の高齢化による後継者不足が喫緊の課題となっています。また、本来は大自然の中で生息していたブッポウソウに対して、何時どのような形で私たちの手を外して自然に返せば良いのか、その糸口がナカナカ見つかっていないのも実情です。

北海道の皆さん、岡山県で森の宝石「ブッポウソウ」を観察してみませんか。

ご参考:岡山県支部HP(http://plus.harenet.ne.jp/~wbsjokym/

巣箱へ給餌にきた親鳥(両足輪付き)/ 撮影:秋山 登(岡山県支部会員)

巣箱へ給餌にきた親鳥(両足輪付き)/ 撮影:秋山 登(岡山県支部会員)

支部報「カッコウ」2014年5月号より

自然保護のバトン

玉田克巳

 昨年九月、根室の高田勝さんがご逝去されました。長年道東に住んでいた私にとっては、いろいろなことを教えていただいた、心の師の一人であります。訃報を伝える記事には「風蓮湖の近くで民宿(風露荘)を営みながら、自然についての多くのエッセー集を著した文筆家でナチュラリスト」と紹介されていますが、風露荘を訪れた多くの方々と語らい、いろいろなことを教えてくれた人生の大先輩です。十月のお別れの会には参列させていただきましたが、九月の葬儀は近親者のみで執り行われたとのこと。元来の無宗教論者であったため、お経も、戒名もない葬儀であったようです。

 勝さんとの思い出はたくさんありますが・・・。私がバンディングにかかわり始めて間もないある年の秋、Y研究所のS研究員が、ロケットネットでミツユビカモメを捕獲するとのこと。勝さんと私のほかに、数名のバンダーがお手伝いで参加しました。

 ロケットネットとは、黒色火薬を使って、長さ三十センチ程の円筒形の鉄の弾三発を飛ばし、結わえ付けた網を展開するものです。網の幅は十八メートル、長さが十二メートルで、この範囲が射程となります。火薬への着火は遠隔操作ができ、数百メートル離れたところから行われます。網を設置する際に、木切れを使って射程範囲に目印をつけておき、離れたところから鳥が射程に入るのを待ちます。

 夜明け前に網を設置して待つこと数時間。勝さん「鳥が集まってきたね」、S研究員「集まっている群れは全体で数百羽だけど、射程に入っているのは十羽ぐらいかなあ。ちょっと少ないけれど、たくさん獲ってしまうと後の作業にも時間がかかるから、このぐらいで捕獲します」といって雷管のスイッチを入れました。網はきれいに展開し、たくさんのカモメが捕まりました。獲れたカモメを全部網からはずし、リングとウィングタグを装着して放鳥するまで小一時間。作業を終えて、捕獲数を確認すると百八羽でした。ここで勝さんが一言、「ちぇっ。Sの奴、何が十羽だ、煩悩の数だけ獲りやがって・・・。」と言い捨てて、足元に落ちていた長さ一メートル、幅十センチ程の木切れを拾い上げ、野位牌に見立ててマジックでおもむろに文字を書き入れました。「鴎覚院百八倍居士」。そして一言「戒名だ」。

 その夜私は風露荘に泊り込み、勝さんと祝杯をあげました。お酒がまわったころ、勝さんの箒をギターに見立てたカントリーウェスタンの独奏が始まりました。いつもの恒例です。そして程なくして「玉田クン、表に出るぞ」と誘いだされ、「さあ、叫べ!」と促されました。「突然叫べと言われても・・・」とモジモジしていると再び「何でもいいから叫べ」と催促されました。酔っ払った二人で、何を叫んだかは忘れてしまいましたが、隣近所のいない、ニムオロ原野に向かって二人、大声で叫んだことだけは憶えています。

 北海道、ことさらニムオロの自然をこよなく愛し、いつも旗手として自然保護の先頭に立っていた勝さん。野鳥の聖域を作るために根室に移り住み、孤軍奮闘してきた勝さん。この自然保護のバトンは、私たちが引き継いでいかなくてはいけないのだと感じています。この精神にただただ合掌の一念です。

支部報「カッコウ」2014年 4月号より

ラナルドマグドナルド考

焼尻島 磯野 直

先日、標識調査員の有田さんから原稿の依頼があった、自分で書けばと言ったら、一度書いたのであんたに頼むと言い出す。簡単に言ってくれますが、私は旅館の主人で、野鳥には詳しくないのは承知のはずなのに、と思いながらも、どうせ暇なんでしょと言われそうなので、少し島の事を書くことにした。

焼尻島の南海岸にトーテムポールが建っている、これはラナルドマグドナルドというアメリカ人の上陸記念碑である。一八四八年六月二七日捕鯨船に乗って日本海に入った彼は、島の南海岸に上陸する。島を探索したが無人島と判断して(島の東側にはアイヌ人や日本人がすでに住んでいた。島にある厳島神社の鳥居に天保十五年と刻印がある)二日間滞在したのち、本来の目的地だった利尻島を目指す。そこで彼はボートをひっくり返して遭難者を装い助けてもらう。その後彼は松前藩を経由して長崎に送られそこで投獄生活を送るが、その間、役人に英語を教える。その役人がのちにペリーが来航した際に幕府の通訳を務めたとされている。焼尻の島民であればだれもが知っている事ですが、調べていくと、色々と疑問がわいてくる。その一つは彼がどこで日本の事を知り得たのか。アメリカに帰った後に彼が書きとめたものを調べていくとなかなか面白い。彼はイギリス人の父アーチボルトマグドナルドとインディアン、チヌーク族の族長コムコムリの末娘コーアルクソア(わたりがらすという意味)との間に生まれた。彼の父は当時ハドソン湾岸会社の重役であった。彼は成人したのち銀行に勤務していたが、世界放浪の旅にあこがれていた。そこで知ったのが日本人音吉の存在であったと思われる。音吉は一八三二年鳥羽から江戸に向かう途中、遭難し一四カ月間漂流したのちシアトルの北部フラッタリー岬に流れ着く、そこでインディアンに捕えられ、イギリス船に奴隷として売られた。その船の所有者がハドソン湾岸会社だった。イギリスの本社では音吉をなんとか日本に帰そうとするが幕府は許さなかった、その間色々と日本の事を話した事が父を通じてマグドナルドの耳にも入り彼の冒険心をあおったと思われる。一説には音吉が彼の家に居候をしていたともあるが定かではない。そこでマグドナルドは日本に渡る計画を立てハワイに渡り捕鯨船の船員となり希望通り日本を目指すことになった。そして焼尻島に上陸した。

英語の通訳に関しても調べていくと面白い事がわかる。当時幕府にはジョン万次郎がいたはずである。彼もまた土佐沖で漁の最中に遭難し鳥島で百四十三日間過ごしたのちアメリカの捕鯨船に助けられアメリカに渡った。彼は日本に戻るため琉球から上陸を図るが捕えられ薩摩藩で取り調べを受けるが英語が堪能な事から島津斉彬の目にとまり幕府の役人として召し抱えられた。その万次郎がいたにもかかわらずなぜペリーが来航した際に通訳をしなかったのか。諸説あるがひとつは、たかが漁師の分際のものに幕府の通訳をさせるのは沽券にかかわるという役人の思いがあった。もう一つには、彼の英語は漁師言葉でスラングが多く、しかも音を聞いて覚えたのでなかなか聞き取れないことから外国との条約締結には適さないとの判断があった。どちらもありそうな話である。興味のある方は、ぜひ一度焼尻島を訪れて、海を眺めながらマグドナルドと同じ思いに浸っていただければと思います。

さて、この記念碑ですが、春先に役場担当課から、傷みが激しいのでちょっと様子を見てきてほしいと依頼があり。早速見に行こうとしたら、女房がこの時期は何か珍しいものが来ているかもしれないので一緒に行くと言い出した。私もカメラを抱えて行ってみると、いたいた、ヤツガシラです。感激。これだから島暮らしはやめられない。

支部報「カッコウ」2014年3月号より