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Sapporo Chapter Wild Bird Society of Japan

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タンチョウと石狩低地帯

北海道大学大学院文学研究科 博士後期課程 久井貴世

かつて北海道が蝦夷地と呼ばれていた時代、タンチョウは道内各地に広く生息していました。江戸時代の史料では、蝦夷地には白鶴(ソデグロヅル)、蒼鶴(マナヅル)、黒鶴(ナベヅル)が生息し、なかでも丹頂(タンチョウ)が特に多いと記されています。タンチョウの生息地としては石狩や勇払などのほか、特に著名なのはシコツでした。シコツとは現在の千歳地域のことですが、文化2年、ツルが多く生息することに因んで「千歳」と改名されました。明治に入ってからも、石狩低地帯には多くのタンチョウが生息していました。明治14年時点で道内の繁殖地として認識されていたのは、胆振国千歳郡や札幌丘珠村などでした。明治のはじめ頃、タンチョウは千歳や札幌でも繁殖していたのです。

北海道の人々にとって、タンチョウは有用な資源でした。松前藩にとっては重要な産物であり、アイヌの人々もわなや弓矢でタンチョウを捕獲して、これを和人との交易や献上の場面で利用しました。また、明治5年に千歳に移住した入植者は、捕獲したツルで缶詰を自製したり、脛骨でかんざしを作ったりしたといいます。

ツルは食材としても利用されていましたが、当時の史料には、最も美味なのはナベヅルで、次いでマナヅル、さらにソデグロヅルは下等であると記されています。そしてタンチョウは、肉が硬く味も良くないので、食用にすることは少ないとされました。それでは、北海道で捕獲されたタンチョウは食用にならなかったのでしょうか。明治18年の函館で阿寒産の「丹頂の鶴肉」が販売されたという記録を見る限りは、タンチョウも食用になっていたことが窺えます。

あまり美味しくないとされるタンチョウは、むしろ飼い鳥としての需要がありました。水戸黄門で知られる徳川光圀は、松前藩主から進上されたタンチョウを2羽飼っていたし、室蘭のアイヌが捕獲したタンチョウは江戸城西の丸で飼われていました。明治に入ると、いわゆる特権階級の人々の屋敷でもタンチョウを飼うようになり、例えば徳川慶喜や松方正義、大隈重信などがそうでした。もちろん、皇居での飼育も確認できます。明治27年、現在の北広島で捕獲されたタンチョウの幼鳥が明治天皇のもとへ献納され、その後皇居で飼われていました。

残念ながら石狩低地帯のタンチョウは、これと同じ頃に姿を消したといわれます。しかし近年では、苫小牧でつがいのタンチョウが確認されるなど、石狩低地帯での情報を耳にすることがあります。百余年を経て、再び石狩低地帯にタンチョウの姿を見る日が来るのかもしれないですね。

タンチョウ捕獲の図/北海道大学附属図書館蔵『蝦夷風俗図』より

支部報「カッコウ」2014年 7月号より