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Sapporo Chapter Wild Bird Society of Japan

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ラナルドマグドナルド考

焼尻島 磯野 直

先日、標識調査員の有田さんから原稿の依頼があった、自分で書けばと言ったら、一度書いたのであんたに頼むと言い出す。簡単に言ってくれますが、私は旅館の主人で、野鳥には詳しくないのは承知のはずなのに、と思いながらも、どうせ暇なんでしょと言われそうなので、少し島の事を書くことにした。

焼尻島の南海岸にトーテムポールが建っている、これはラナルドマグドナルドというアメリカ人の上陸記念碑である。一八四八年六月二七日捕鯨船に乗って日本海に入った彼は、島の南海岸に上陸する。島を探索したが無人島と判断して(島の東側にはアイヌ人や日本人がすでに住んでいた。島にある厳島神社の鳥居に天保十五年と刻印がある)二日間滞在したのち、本来の目的地だった利尻島を目指す。そこで彼はボートをひっくり返して遭難者を装い助けてもらう。その後彼は松前藩を経由して長崎に送られそこで投獄生活を送るが、その間、役人に英語を教える。その役人がのちにペリーが来航した際に幕府の通訳を務めたとされている。焼尻の島民であればだれもが知っている事ですが、調べていくと、色々と疑問がわいてくる。その一つは彼がどこで日本の事を知り得たのか。アメリカに帰った後に彼が書きとめたものを調べていくとなかなか面白い。彼はイギリス人の父アーチボルトマグドナルドとインディアン、チヌーク族の族長コムコムリの末娘コーアルクソア(わたりがらすという意味)との間に生まれた。彼の父は当時ハドソン湾岸会社の重役であった。彼は成人したのち銀行に勤務していたが、世界放浪の旅にあこがれていた。そこで知ったのが日本人音吉の存在であったと思われる。音吉は一八三二年鳥羽から江戸に向かう途中、遭難し一四カ月間漂流したのちシアトルの北部フラッタリー岬に流れ着く、そこでインディアンに捕えられ、イギリス船に奴隷として売られた。その船の所有者がハドソン湾岸会社だった。イギリスの本社では音吉をなんとか日本に帰そうとするが幕府は許さなかった、その間色々と日本の事を話した事が父を通じてマグドナルドの耳にも入り彼の冒険心をあおったと思われる。一説には音吉が彼の家に居候をしていたともあるが定かではない。そこでマグドナルドは日本に渡る計画を立てハワイに渡り捕鯨船の船員となり希望通り日本を目指すことになった。そして焼尻島に上陸した。

英語の通訳に関しても調べていくと面白い事がわかる。当時幕府にはジョン万次郎がいたはずである。彼もまた土佐沖で漁の最中に遭難し鳥島で百四十三日間過ごしたのちアメリカの捕鯨船に助けられアメリカに渡った。彼は日本に戻るため琉球から上陸を図るが捕えられ薩摩藩で取り調べを受けるが英語が堪能な事から島津斉彬の目にとまり幕府の役人として召し抱えられた。その万次郎がいたにもかかわらずなぜペリーが来航した際に通訳をしなかったのか。諸説あるがひとつは、たかが漁師の分際のものに幕府の通訳をさせるのは沽券にかかわるという役人の思いがあった。もう一つには、彼の英語は漁師言葉でスラングが多く、しかも音を聞いて覚えたのでなかなか聞き取れないことから外国との条約締結には適さないとの判断があった。どちらもありそうな話である。興味のある方は、ぜひ一度焼尻島を訪れて、海を眺めながらマグドナルドと同じ思いに浸っていただければと思います。

さて、この記念碑ですが、春先に役場担当課から、傷みが激しいのでちょっと様子を見てきてほしいと依頼があり。早速見に行こうとしたら、女房がこの時期は何か珍しいものが来ているかもしれないので一緒に行くと言い出した。私もカメラを抱えて行ってみると、いたいた、ヤツガシラです。感激。これだから島暮らしはやめられない。

支部報「カッコウ」2014年3月号より